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 自分にはおよそ想像もつかないが、トップに立つ表現者は、誰しも覚醒しながら狂気と紙一重の世界で格闘しているのかもしれないなと、ニューヨークのバレエ団を舞台にした『ブラック・スワン』を見て感じた。

 新説”白鳥の湖”が演じられるにあたり、自分がこれまで憧れていたプリマが降ろされ、代わりに主役に抜擢されたニナ・セイヤーズ。まったくの僥倖に彼女はトイレで嬉しさを噛み殺しながら母親に電話するが、トイレから出ると鏡に大きく「アバズレ」という落書きが。その段から、鑑賞者を否応なしに作品の世界へ引き込む冒頭のクレイジーな夢から感じられた不吉な足音の気配が、現実世界においても少しずつ確実にニナへと接近する。

 オデット(白鳥)のような繊細さは表現できても、オディール(黒鳥)のような情熱を表現できないことに多大なプレッシャーを感じるばかりでなく、自分とは対照的に艶やかさを備えた新人ダンサーのリリーに役を取られてしまうのではないかと焦るニナ。そして過保護でいつまでも子離れできない母親の存在。それらの抑圧と焦燥、苛立ちが三位一体となって彼女の精神を蝕み始める。

 果たしてどれが現実で、どれが夢なのか。精神に異常をきたす理由付けが分かりやすくたっぷり用意されていて、「さもありなん」という感じではあるが、その「さもありなん」を、夢と現実の境界線を曖昧にさせながら私たちに狂気を知覚させている――つまりかつて気が狂ったという芸術家たちを、映画を通して追体験しているのではないだろうか(徹底した一人称で語られているのがポイントだ)。狂気に至るまでのその過程を、ときにホラーめいた演出で、癒えない引っ掻き傷、爪を強く切る不快な音、どこからともなく聞こえる嘲笑のノイズ、などで知覚し、鑑賞者の目に、耳に、痛みを蓄積させ、疲労困憊させる。ラスト、闇の中に下った人間だけがたどりつけるような、これ以上ないほどの絶頂体験には鳥肌が立った。表現者が対峙する苦悩に肉薄した傑作である。


『SOMEWHERE』(2010年、アメリカ)




 『SOMEWHERE』は、幼い頃から名監督の娘として生きてきたソフィア・コッポラ自身を投影したと思われる、まさに映し鏡のような映画であるが、冒頭わずか3分で好き嫌いが分かれる作品といっても過言ではないかもしれない。環状道路を延々と周回する黒のフェラーリ。それを固定されたキャメラが長回しで映し出す。「堂々巡り」「空転」「脱出不可」などの単語を想起させるほど、主人公のいまの心情を分かりやすく描いているが、このシーンが、ようは水先案内人のような役割で、これから始まる映画の方向性を示唆しているといえる。

 この映画は、ハリウッドにある有名ホテルの一室を借り、空虚な思いで毎日を過ごすセレブ俳優・ジョニーと、離婚した妻と暮らす娘・クレオとの短い交流を描いた作品であるが、特に父と娘の関係が深まるようなことはなく、私たちがふつう映画に期待するようなドラマは起こらない。むしろ見る人によっては眠気を誘われるかもしれない。映画的ダイナミズムが削ぎ落とされたソフィア・コッポラのこの新作は、退屈なようでいて、しかしながらその映像空間に漂う緩慢な気配――多用される長回し、ゆったりとしたズームイン/アウトがこれに寄与している――には、目が離せない魅力があるように思う。

 ジョニーとクレオとの関係や対比がことさら強調されることはないが、光によって影は色濃く見えてしまうというもの。富と名声こそあれど、退廃的な生活を送り、大海にただ浮沈しているだけの自分が、娘のように美しく眩い光のような存在と対峙するのは耐えられない。その”存在の耐えられない軽さ”が、おそらく一度だけジョニーの心情が吐露される、「俺は空っぽな男だ」ということばに全て集約されている。人は一人では生きられない、ゆえに相手と比べてしまう。駄目なところも含め、「これが自分だ」と胸を張れる人間は少ないだろう。

 しかし、ジョニーはクレオと交流を重ねることによって、微妙にだが確実に変化が訪れる。ジョニーにとっての変化の起点がまず”自分で料理をする”という点は個人的に面白く感じたが、分量を無視したパスタ料理に、”変わろうとする自分”しかし”急には変われない自分”がよく表われている。ホテルの部屋を引き払い、フェラーリを走らせ、道端で乗り捨てるジョニー。そして”どこかへ”向かっていきながらジョニーが浮かべる表情がラストカットとなって映画は幕を下ろす。

 起伏に乏しくとも、キャメラの視線と空気感だけで映画を牽引するこの気概の良さは大いに買いたい。
原作未読!


 『わたしを離さないで』(2010年、イギリス)

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 抑えた色調も手伝ってか、せつなさが通奏低音となって始終胸に鳴り響く映画だ。

 来るべきときに備えて肉体と精神を絶えず健康に保つため、ヘールシャムという名の施設――管理社会なるディストピア――に置かれた子どもたち。彼らが担うことになる役目、その詳細は早い段階で明らかにされるが、教えられた子どもたちは内容の意味をよく掴めないのか、あるいは慣らされているのか、それほど動転した様子はない。その反応に戸惑ってしまうのは、むしろ見ているこちら側である。ここで一つの可能性に気付くのだが、それをいま詳らかにするのは避けたいと思う。

 タイトルの『わたしを離さないで(Never let me go)』は、キャシーの級友であり初恋の少年トビーからプレゼントされたテープから流れてくる歌の一節に使われている。キャシーは、子どもが耳にするにはいささか情熱的な歌詞が流れるこのテープを、とても幸せそうな表情で、おそらくは夢想に耽りながら、目を閉じて、聴く。この映画で最も印象的なシーンの1つだが、現実は歌の歌詞のようにはいかず、トビーは同じ級友のルーシーと恋人となってしまう。

 大人になり施設を出ても恋人であり続ける2人を横目に、キャシーの閉鎖的な心情を表わすかのように、ヘッドフォンでかつての音楽に聴き浸る。そのときの表情はかつてのそれとは非なるものだ。

 キャシーは自分が抱いている本当の感情の裡をさらすような愚を犯さない。"never let me go"という歌詞は、そんな彼女の気持ちを代弁しているものだと自分は思っていたし、おそらくそうなのだろうけれども、見終わったあとではまた違うことを考えている。

 果たして、"わたしを離さないで"の"わたし"とは誰のことを指していたのだろう?あるいはこの歌の主体は"心"や"魂"に置き換えられることができるかもしれない。つまり感情の擬人化である。そうすることで、たとえ全人格を否定されるような驚天動地の真実に触れたとしても、「それでもこの心は私のものだ」という強い思いを支える一つの根拠になるのではないだろうか。

 過酷な運命と平凡な日常を享受しながらもつかんで離さないのは、ふたり一緒になりたいという、有史以来脈々と語り継がれてきた純然たる欲求。生の熱源を問う静かなる傑作だ。
 日本のアニメ業界の衰退に歯止めをかけるためにも若手の才能を伸ばす機会を作ろうという構想のもと立ち上げられた「若手アニメーター育成プロジェクト」。そのプロジェクトの成果を示す”お披露目会”として参加した4作品が3月5日~11日までの期間限定で上映されるが、若い才能に目がない自分は矢も盾もたまらず劇場まで足を運んだ。ホンネを言うなら「もっと実験的な作品があってもよかったかな・・・」とは感じたけれども、概ね満足。なかでも滝口禎一監督の『おぢいさんのランプ』は出色の出来栄えだろう。
 
 文明開化時代ランプ売りとして身を立てる青年の成長を描いた『おぢいさんのランプ』は、30分という短い時間でありながら起承転結にメリハリを利かせたドラマツルギーの好例であるが、いい映画の影にいい原作あり、本作は新美南吉作の同名児童文学が基になっている。

 児童文学らしく、wikipediaの”あらすじ”で物語の全容が語られているほど短いお話ではある。しかし、当時の風俗、四季折々の色に染まる風景、そして何よりも、ランプが発する熱のあたたかさが作品に彩りを与え、アニメーション的な要素は薄いものの、実に滋味あふれる映像作品に仕上がったのではないかと思う。

 特に印象深く感じたのは、かつて「村を明かりでいっぱいにするんだ」と目を輝かせながら語った少年が、ランプ売りの立派な青年となってその夢を果たしたはずなのに、電気の登場によって自己の利権が奪われそうになると手のひらを返し、他人に嘘を吹き込もうとさえしたシーンだ。現実を生きるために必死なこの人間臭さがいいし、そしてさらに自分が発した一言による”気持ちの矛盾”にも人間臭さがあふれていて実にいい。シンプルに生きるのは存外難しい。

 約130年前の日本が舞台であっても、抱えるテーマには普遍性がある点が、やはりこの作品の長所だろう。新たな技術が誰かの仕事を奪う、という構図。乱暴な言い方だが、ともすればあのランプ屋は今日の全ての職業に置き換えられることができるかもしれない。なんといっても、日々何かがアップデートされ、古いものは駆逐されてしまうのが世の常なのである。仕事の未来は人生の未来。いまに安住せず、過去と訣別し、閉塞感を打破するだけの勇気を与えてくれるような作品だ。

 『おぢいさんのランプ』はMBSで3月12日(土)26:58~放映。その他作品も放映予定あり。この機会にぜひ。





『瞳の奥の秘密』(2009年、アルゼンチン)




 本年度アカデミー賞外国語映画賞を受賞したアルゼンチン映画。刑事裁判所を退職したベンハミンは、25年前に起こった殺人事件を題材に小説を書こうとし、かつての上司だったイレーネを訪ねる。事件の回想を交えながら小説を書き進めるなかで彼が辿り着いた事件の真相とは?

 『瞳の奥の秘密』は、妻を殺された銀行家の男・リカルドの”愛”が推進力となって物語が進むが、「冷めない愛はない」「永遠の愛?なにそれ美味しいの?」と考えている自分にとって、彼がつらぬいた”愛”ほど自分の心を揺さぶったものはないだろう。愛とは思うだけでなく、見つめるだけでなく、行動することだ。訴えることだ。犯人を見つけ出そうとするリカルドの姿を見たベンハミンは「あれこそ真実の愛だ」と感銘を受け、一度は”解決されたことになった”殺人事件を、再び調査することになる。そして発見、逮捕。収束するかのように思えたが、それからの展開は、全く予想できないものだった。

 妻を殺され、彼の人生における時間が止まってしまったからこそ、妻への愛も永遠に、”その時間に”凍結されたのだろう。だからその愛が終わりを迎えることはけして無い。相手に告白しなければ片思いが終わることがないことと同じように。だがリカルドの場合は、皮肉ともいえるが、悲劇を経験したことによって、思いがよりいっそう強固なものとなった(愛と憎悪が手を結ぶと実に厄介だ)。そしてベンハミンが辿り着く真実、「まさか」が「やっぱり」にシフトした瞬間の衝撃といったら!いや、カタルシスといっても差し支えないかもしれない。正直なところ自分は、この映画を見て、これまで経験したことのないような名状しがたい涙が出た。”素晴らしい”でも”可哀想”でも”悲しい”でも”美しい”でもない。リカルドのこれまでの一つ一つのセリフ、行動がラストシーンへと収斂され、”感情を形容することを許さない”のである。真実の愛と呼んでいいものを、自分は初めて見たような気がする。

 『瞳の奥の秘密』はシビアな事件を描写しているが、箸休めと言わんばかりのユーモアも挿入される、なかなか意外性のある映画だ。老けメイクも違和感ない。イレーネが男の視線で本質を見抜き、一芝居打つシーンも見事。そして特筆すべきは、やはりサッカー場のシーンだろう。空撮からのワンカットの撮影は、「いったいどうやって撮ったんだ?」と誰もが驚かずにはいられないような、超絶技巧を見せてくれる。

 絶賛しているように思われるかもしれないが、必ずしも頭からつま先まで面白い映画というわけではない。それでも2日3日続くような深い余韻を味わえるし、咀嚼する価値のある一本だ。何より、言葉を喚起させてくれる。映画ファンはこれを見ずして何を見るというのでしょうか。

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