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dear


 もちろんアンケートをとったわけではないが、西川美和監督の最新作『ディア・ドクター』は賛否が分かれる映画だろう。映画そのもののデキではない。小さな村の診療所に勤める医者・伊野(笑福亭鶴瓶)の抱えた嘘についてである。「その嘘は、罪ですか」という疑問提示型のキャッチコピーに観客は鑑賞後も思考することを促される。確かに嘘をつくことは罪かもしれない、しかしながら物事は必ずしも善と悪、白と黒の二面性だけで語れるものではなく、灰色のなかでゆれていることもしばしばある。

 舞台となるのは、もとは無医村だった、人口1500人ほどしかない神和田村。そこに引き抜かれてやってきた伊野はそれはもう”神様仏様”のような扱いをなされ、高齢者が人口の過半数を占める村にとって、伊野の診療所はまさに村の中心地、村民たちの心の支えであった。物語はその”神様仏様”の伊野が失踪したシーンから始まり、なぜ失踪するに至ったか、それまでの経緯を詳らかに描写しながら、失踪事件後の村民と伊野の部下たちの反応が互い違いに挿入されて進行する。脚本がよく練られているなという印象。

 伊野は2つの嘘を抱える。1つは「娘の世話にはなりたくない」という患者の希望を叶えるための嘘。そしてもう1つは、あるいは人の信頼を裏切る嘘。鋭い人なら冒頭で気がつくに違いないが、ただそういったミステリー的要素はあくまでオマケ、付随的なものだから、ネタがバレること自体はそう大したことではないかもしれない。まぁそれでも予告編やオフィシャルサイトのあのフレーズはちょっと語りすぎなのではと思うけれども。

 研修生として村までやってきたボンボンの相馬(瑛太)は次第に伊野に感化されていき、機械的に患者が処理されていくだけの大学病院とは大きく異なり、医者と患者の距離が近く、人から必要されているという実感が得られるこの田舎の村で働きたいと伊野に訴えるシーンにおいて、伊野は自分の心中を初めて吐露する。「おれは違う、この村好きでいてんのと違うんや」「おれは偽善者や」、だからそんなに自分を持ち上げんでくれ、と。

 西川美和監督は『ゆれる』の高評価には大きな戸惑いがあったらしい。自分には大した技量もない、すぐれた監督でもないのにそんなに持ち上げるなんて、みんなイミテーションの私に騙されてるのではないか――と。そうした自身のリアルタイムな感情に沿って撮られたのがこの『ディア・ドクター』という。つまり伊野には西川監督の自己が多かれ少なかれ投影されており、負の感情が着想の発端、ものづくりの推進力となっている点はいかにも作家的だなぁと感じるが、フィクションとフィクションの構築、嘘を重ねる作業によってある事象の(ここでは監督自身の)真の表情を観客に覗かせるあたり、映画を通しての”自己表現”は成功している。『ゆれる』にしろこの『ディア・ドクター』にしろ、西川監督の映画が凡百のエンタテインメント映画と一線を画している点は、こういった作家性によるところが大きいのではないか。取ってつけたようなラストシーンが残念だけれど、”こんな自分でも受け入れてください”という、なお謙虚な姿勢を見て取れることもできる。

 伊野に万歳する村民は、ひょっとしたら私たち観客自身を示しているのかもしれない。


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 語らずとも自然と滲み出てくるような、中嶋莞爾監督の作家性を強く感じさせる映画的恍惚に満ちた傑作で、鑑賞後、形容しがたい余韻を残す映画だ。『パリ、テキサス』『ベルリン・天使の詩』で監督を務めたヴィム・ヴェンダースがエグゼクティブ・プロデューサーとして関わってはいるが、まだまだ邦画も捨てたもんじゃないと思わせてくれる。ヒトクローンという深遠なテーマもさることながらモノトーンを基調とした詩情豊かな映像が何より美しく、見応えがある。

 何が良いかって、冒頭の長回しからしてまず素晴らしい。オープニングクレジット直後にスクリーンに映し出されるのは病院内のロビー。この、俗世とはおよそ無縁であるような無機質な一室がいかにも近未来的であり、SF作品としてその雰囲気作りにまず成功しているなとほとんど脊髄反射的に感じさせる。まどろんだような陽光で満ちた玄関口から入ってくる初老の女性が、看護士に部屋を案内されるとようやくカメラが動いて長いすに腰を下ろした高原耕平(ミッチー)が登場するが、このときの逆光のシルエットがとても印象深く、これがおれのやり方だと言わんばかりに、このワンカットのように光と影の対比を強く意識した映像が全編を通して見られる。

 のちに現れる耕平のクローンが故郷を目指して歩くようになるそもそものきっかけを示すため、病院の床に伏す母親との会話が呼び水となって少年時代に遭った不幸な事故が早い段階で詳らかにされるが、どこがロケ場所なのかしらん、このときの田舎の風景も寒々としながら懐かしさを感じさせるように美しく撮られており、随所に挿入される霧(靄?)の映像も単なる雰囲気として終始していない。耕平と彼の双子の弟が庭で遊んでいるシーンにおいては石で囲っただけの小さな焼却炉からもくもくと排出されている煙がスクリーンを横切るが、これをさりげなく、あくまで背景としての一つの演出としながらも、自分はこの煙がなかなかに重要な役目を果たしていると感じた。この煙がまるで壁のようになって死者と生者を分断しているような気がするのである。

 特にラストシーンでその感覚が強まり、前半とは全く逆の構図で死んだ母親と死んだ”2人目”の耕平が縁側から室内へ入っていくところを生きている”3人目”の耕平がまさしく白昼夢のごとく目撃するのだが、やはりここにおいても両者の間を遮るように煙が流れ、死んだ彼らに追いつけないともいうような演出がなされている。これは法を越え矩をこえ誕生したクローン人間であっても踏み越えられない一線があることを暗に強調したかったのではないだろうか。「ぼくは生き続けなくちゃならないんだ」と話す耕平だからこそ感慨は深まる。それを考えると、朽ちた故郷の家で死んでいた”2人目”の耕平を抱き、押し殺した声で泣く”3人目”の耕平の胸の中に渦巻いていたのは、むしろ死への憧憬であろうか?

 他の映像や役者のことについてなど、語りたいことはたくさんあるけれど、かなり長ったらしい文章になりそうなので、これ以上言及するのはやめておこう。興味があればぜひ見て欲しい。詩情を喚起するような丁寧に撮られた映像も素晴らしければ、この映画自体が投げかける問いに思うところがあるはず。噛めば噛むほど味が出そうだし、考えれば考えるほど何か出てきそうな奥行きのある映画だ。


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