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『英国王 給仕人に乾杯!』(2006年、チェコ)


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 ”映画は第二の人生”と呼ぶ人がいるように、自分では決して経験し得ない人生を、過去にわたり現在にわたりそして未来にわたり、スクリーンを通してそれはもうたくさん経験できるものであると思う。一本の太い線から枝分かれして細い線が無数に広がっているイメージ。必要なのは想像力である――映画に没頭しやすい人であればなさおさらそれを実感するのではないか。だから映画は素晴らしい。『英国王 給仕人に乾杯!』のような傑作に出会うと改めてそう思うのである。

 本国チェコの映画賞を総なめにした本作は、激動するチェコ20世紀現代史を舞台に、大きな夢を抱いた小さな男の半生を描く。15年という刑期を終えてプラハの刑務所から出所したヤンは、山中の廃屋で見つけたビールジョッキがきっかけとなり、給仕人として生きた自分の人生を振り返る。その記憶をなぞるようにして物語は進み、観客はヤンという男のドンデン返しな半生を経験することになる。

 この小さな男が抱いた大きな夢とは、つまるところ”百万長者”。金・女・名誉という、いかにも俗っぽい要素がしばしば絡んでくるゆえ、ともすれば男たちのどうしようもなく矮小な部分を露悪的に描いたような下品な映画になるだろうが、破壊的ユーモアに満ちた本作はそれを許さない。とにかく憎らしいぐらい笑えることができ、歴史的悲劇が絡んでくる後半すらも軽やか。意外と予算があるのか映像は豪華で、流れる優雅な音楽も給仕人たちの立ち居振る舞いに華を添えている。まるで一つの夢を見ているような気分にさせる快作である。


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『あの夏の子供たち』(2009年,フランス) 

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 映画製作会社を経営し、プロデューサーを務めるグレゴワール(ルイ=ド・ドゥ・ランクサン)には3人のかわいらしい娘がいる。ケータイ電話をつねに手離せないほど仕事が多忙を極めていても、週末にはパリ郊外にある閑静な別荘で3人の娘と妻の家族全員で過ごすことを習慣づけていることからも分かるように、良き父親であるようだ。だが、会社の資金繰りが悪化し、首が回らなくなったグレゴワールはついには拳銃自殺してしまう。

 発作的とはいえ、自分が守るべき家族、また自分を愛してくれる家族がいながらの自殺。「娘が3人もいるのに自殺するなんて」、と、グレゴワールに対してわざと拒否感というか怒りを抱かせるような設定になっているとしか思えない。確かに自殺は”卑怯”であり”逃げ”かもしれず、人一人が抱える人生の重さを「遺族」と「負債」の二重で語るさまはシビアとしかいいようがないが、しかしそれでも自分は、家族が再出発する過程を眺めているうちに穏やかならざる気持ちをなどすっかり忘れ、見終わって、想像していたよりもずっと優しい映画だなと感じた。

 そう、”父は私たちを捨てて人生を降りた”というキャッチコピーからも本作は暗くて重い映画を連想しがちであるが、『あの夏の子供たち』で貫かれる瑞々しい映像と柔らかい雰囲気は、”死”に付随しがちな陰鬱なイメージを排除し、自ら命を絶った人間を頭ごなしに否定するのではなく、むしろその人が遺してきたものに対して光を当て、思いを汲み取り、知り、共有しようとする。監督はこの過程を、29歳という若さで撮ったとは思えないほど、極めて冷静に、沈着に、だが人に対する愛おしさを感じずにはいられないほど慈愛に満ちた視線で辿っていく。

 「その瞬間、パパは私たちのことを思い出した?」と、娘が母親に問いかける言葉は痛切である。母親が何と答えようとも、彼女たちは静かに目を伏せうっすらと涙を浮かべるだけ。けして誰も何かを主張することはない。しかし、物事が暗転し悲劇の極致に至っても、誰も叫ばず誰も喚かない点はこの映画にとってかけがえのない大きな美点であり、だからこそ、 それまでの思いが最後に流れる「ケ・セラ・セラ」の歌に収斂されていく演出がなおさら心を打つのである。

 こんな自分でも、生きることに対しての解像度をいくらかくっきりさせてくれそうな、優しい映画だった。





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フォロー・ミー

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 1973年に日本で公開され多くの映画ファンの心に足跡を残したらしいイギリス映画『フォロー・ミー』は、公開が終わってから昨年度の「午前十時の映画祭」に再びその姿を表すまで実に37年間ものあいだリヴァイバル上映はおろかパッケージ化もされていなかったが、いまも衰えぬその人気に背中を押されたのか、去年11月にようやくDVD化した。そしてDVDを手に入れた。見た。驚いた。今は亡き映画評論家の淀川長治さんをして「サスペンス映画の教科書」と言わしめた『第三の男』のキャロル・リード監督が、まさかこんなにハートフル、かつ切ないロマンス映画を遺していたなんて!!我ながら不覚。

 公認会計士のチャールズは偶然知り合った無知で美しい女性のベリンダと結婚するが、ベリンダの自由奔放な振る舞いがチャールズを次第に疑心暗鬼に陥らせ、探偵に彼女の浮気調査をさせる。男がいるのか、いないのか。チャールズがもやもやとした不安を抱える一方で、ベリンダを追跡した白いトレンチコート姿の探偵は彼女の抱える孤独に気づき、その孤独を癒そうと試みる。チャールズ、ベリンダ、探偵。3者3様の思いが交錯し、たどり着いた結末は。

「愛するということ。それはお互いを見つめあうことではなく、同じ方向を見ることである」という作家のサン=テグジュペリが残した名言に対して、「まぁそうなんでしょうな」と感じながらもどこが訝しげに思っていた自分にとって、この『フォロー・ミー』はその名言を真に納得させる上で十分なテキストになったのではないかと思う。「恋愛は結婚へのパスポートではないわ。好きでなくなったらそこで結婚も終わり。毎日新しい感覚、新しい感情、新しい何かを見つけ、喜びに包まれていたい」――つまり愛に必要なのは、2人が同じ方向を見ることによって生まれる共感、そしてそれによって得られる、あふれる喜びなのである。

 それにしても、『フォロー・ミー』は、リチャード、ベリンダ、探偵、少なくとも3つの視点から鑑賞が可能だけれども、自分はやはり、白いトレンチコートを着たひょうきんな探偵の姿に共感しないわけにはいかなかった。

 白いトレンチコートを見た瞬間からこの男が果たしてどういう位置づけのキャラクターなのかは気付いた。「白無垢」とは花嫁姿のことを指すけれども、男が白い衣装を身に纏うと、「道化者」「変人」「狂人」などの、あまり宜しくないイメージを喚起させられてしまう。『天井桟敷の人々』の主人公のパントマイム芸人は報われない男だったし、『時計じかけのオレンジ』の少年4人組はろくでなし、『ファニー・ゲーム』の男2人はこれまた救いがたいほど趣味の悪い悪人で、『鋼の錬金術師』に登場するキンブリーは快楽殺人者。みないずれも共通して白ずくめの衣装だった。

 ただでさえ目立つ色のコートを、秘密主義に徹するはずの”探偵”に着せるという時点でなんらかの意図が込められているのは明白。それはつまり道化者の役割を果たすために配されている。愛する人のために必死に道化を務めようとする探偵の姿が切なくてしょうがないが、それにもまして体の芯を温かくしてくれるような余韻が得られるのはこの映画のうまさだ。ミステリアスな雰囲気にジョン・バリーの音楽が絶妙にマッチし、忘れられない映画体験をさらに強固なものにしてくれる。ずっと手元に置いておきたくなる一本だ。


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バベットの晩餐会(午前十時の映画祭) ★★★★★+

バベットの晩餐会


 19世紀のデンマークの片田舎を舞台にした『バベットの晩餐会』は侵しがたい静謐さがある映画だ。その静謐さはただ感情を穏やかにするだけではなく、イメージと感覚を刺激し、深部に触れ、人を真摯にさせる。人をとことんイノセントな気分にさせる。抵抗しようもなかった。

 牧師を父に持つ信心深い老姉妹は貧しい生活を続けながらも村人に善行を尽くしてきたが、牧師が亡くなってからというもの村人の信仰は薄くなり、集会のときも村人同士がつまらない諍いを始め、場の雰囲気を悪くしてしまうことがたびたびあった。そんななか、牧師の生誕100年を祝うための食事会が行われることになり、14年間仕えてきた家政婦のバベットが、「フランス式」の晩餐会をさせてほしいと申し出る。初めての頼みごとに戸惑いながらも許可する老姉妹。しかし、彼女が準備を進めるうちに、老姉妹は「何を食べさせられるか分からない」と不安を募らせるのだった――。

 話の大まかな流れはこうだ。前半は若かりし頃の美人姉妹と2人の男の出会いが描かれ、後半はタイトル通りのバベットの晩餐会が丁寧に描写される。村人たちの”密約”により食事について語ることは一切禁止されていても、おそらく生涯最後になるであろうバベットによるフランス料理のフルコースが、凝り固まった村人たちの心をゆるやかに溶かしていく。そのときの幸せそうな表情といったら!
 
 特にラスト、詳らかにされるバベットのいくつかの秘密に肺腑を衝かれるのはまず間違いないのだが、自分が気に入ったのは、かつて愛した女性を「世の中には不可能なこともある」と諦めたあの男だ。出会ってから40年後、いまでは将軍となった彼が晩餐会へ出かける前にこうひとりごちる。「私の選択は間違っていなかったと思わせてくれ」。

 実際のところ、その問いに対する答えがこの映画において明示されることはない。答えないことが答えなのだろう。それはつまり、私たちは常に選択の連続ではあるけれども、それが正しいか正しくないかなんてイエス・ノーの二元論で語れることではない、という純然たる事実。精神的欲求と肉体的欲求を、料理というフィルターを通して全く新しい感情、全く新しい価値観へと昇華させる。そのようなコペルニクス的転回が訪れる瞬間を見て、心のざわつきを抑えることができなかった。

 これだけは言わせて頂きたいのだが、『バベットの晩餐会』はただのグルメ映画ではない。自分にとってこの映画は「一陣の風」のようだった。風が吹く前と吹いた後では世界がまるで異なってみえるような、そんな清涼感すら覚える。人類史上例のない巨大なハリケーンが全てを奪い去って不毛の大地へと帰し、一生消えない爪痕を残し、「空虚」だと思いながら死人のような日々を送っていたとしても、”芽吹き得る感情”はきっといつまでも自分のなかに残されているのだ。そんなことまで深く訴えかけてくれる。生涯忘れ難い映画になるはずだ。新年早々このような映画に出会えたことに感謝!





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 『ずっとあなたを愛してる(Il y a longtemps que je t'aime)』のYahoo!映画のレビューを読んでいたら「主人公が恵まれすぎ」という意見があった。確かに彼女は安定した職に就ける以上の知的レベルがあり美人だし姉が犯罪者であっても変わりなく愛してくれる妹がいるし、あら、気がついたら男も寄ってくるし。確かに恵まれすぎ、でもそれって結局ぜんぶ第三者の目線、第三者の評価に過ぎないのでは。たとえばいくら美人でも、いくら金持ちの人間で他人からは「羨ましい」と思われていても、心が渇いている人はいくらでもいるんじゃないだろうか。たとえば他人の目から見たら「その程度のコンプレックスで悩むな」と思われても、本人にとっては宇宙大の悩みであることもあるんじゃないだろうか。それと同じで、結局のところ、境遇や環境、自分の価値観を物差しにすることは必ずしも正しいとはいえないのだと思う。恵まれた環境は確かに人を善い方向に変えるだろう。でも人の心って単純じゃない。

 本作は”再生のドラマ”と言われている。主人公の女性・ジュエリットは、後半に至れば、15年の刑期を終えて出所してきたばかりの姿――すべてを諦めているような瞳、生気をなくした表情、寒々しい映像も手伝って未だ霧の中を彷徨っているような姿―― の頃に比べるといくぶん元気になっているように見えるが、でもどうだろう、自分は最後の最後まで”再生のドラマ”とは見ていなかった。むしろ感じたのは痛々しいほどの孤独だ。

 妹やその夫など、事情を知っているごく少ない人間はもちろん彼女の空白の期間については触れない。ジュリエットも話そうとはしない。誰にも救いも苦しみも訴えない。なぜ重罪を犯してしまったのかは家族である妹ですら知らず、姉の本当の気持ちは分からない。犯罪者はこの世でもっとも孤独な存在であろう、その心情をけして誰にも理解されることはないという点で。きっかけさえなければ、ジュリエットはきっと真相を墓場まで持っていくつもりだったに違いない。

 ものごとには黒と白では区切れないことがしばしばあるわけで、犯罪者を犯罪者というだけで一方的に拒絶してしまっては本当のことには触れられないだろう。しかし、だからといって話したことで自分の犯した罪がどうかなるわけでもない。事実は事実として明白に疑いようもなく記録されており、本来、釈明する余地なんてないのだから。

 最後の最後まで本作は”再生のドラマ”ではないと思っていた。しかし、最後の3秒、ジュリエットのたった一言で彼女が、表面上ではなく、これから本当の意味で再生していくのだと実感することができた。事実のさらに向こう側、真実が明らかになるラストは「ああ、やっぱりそうだったのか」と思ったが、そこから先のわずかなシークエンス、階下から名前を二度呼ばれて「Oui!」と答えるジュリエット、そして一呼吸置いたあとにこう呟く、「Je suis l?.」。私はここにいる。劇中で彼女は自分のことを存在していない女と友人に話すシーンがあったが、ラストで自分で確かめるかのように「Je suis l?」と呟いた彼女は、自分は孤独ではないということを静かに実感したのではないか。名前を呼ばれ、それに応えるという、ごくごくシンプルなやり取り。でも自分はそのわずか数秒のシーンに、この上なく心を揺さぶられたのである。これは、日本語訳ではなく、「Je suis l?」というフランス語として理解できたせいもあるかもしれない。フランス語をかじっといて良かったなと久しぶりに感じた。
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