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 自分にはおよそ想像もつかないが、トップに立つ表現者は、誰しも覚醒しながら狂気と紙一重の世界で格闘しているのかもしれないなと、ニューヨークのバレエ団を舞台にした『ブラック・スワン』を見て感じた。

 新説”白鳥の湖”が演じられるにあたり、自分がこれまで憧れていたプリマが降ろされ、代わりに主役に抜擢されたニナ・セイヤーズ。まったくの僥倖に彼女はトイレで嬉しさを噛み殺しながら母親に電話するが、トイレから出ると鏡に大きく「アバズレ」という落書きが。その段から、鑑賞者を否応なしに作品の世界へ引き込む冒頭のクレイジーな夢から感じられた不吉な足音の気配が、現実世界においても少しずつ確実にニナへと接近する。

 オデット(白鳥)のような繊細さは表現できても、オディール(黒鳥)のような情熱を表現できないことに多大なプレッシャーを感じるばかりでなく、自分とは対照的に艶やかさを備えた新人ダンサーのリリーに役を取られてしまうのではないかと焦るニナ。そして過保護でいつまでも子離れできない母親の存在。それらの抑圧と焦燥、苛立ちが三位一体となって彼女の精神を蝕み始める。

 果たしてどれが現実で、どれが夢なのか。精神に異常をきたす理由付けが分かりやすくたっぷり用意されていて、「さもありなん」という感じではあるが、その「さもありなん」を、夢と現実の境界線を曖昧にさせながら私たちに狂気を知覚させている――つまりかつて気が狂ったという芸術家たちを、映画を通して追体験しているのではないだろうか(徹底した一人称で語られているのがポイントだ)。狂気に至るまでのその過程を、ときにホラーめいた演出で、癒えない引っ掻き傷、爪を強く切る不快な音、どこからともなく聞こえる嘲笑のノイズ、などで知覚し、鑑賞者の目に、耳に、痛みを蓄積させ、疲労困憊させる。ラスト、闇の中に下った人間だけがたどりつけるような、これ以上ないほどの絶頂体験には鳥肌が立った。表現者が対峙する苦悩に肉薄した傑作である。


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