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 手塚治虫の言を借りるまでもなく、アニメーションの本質はメタモルフォゼ(変容)にあると考えている自分にとって(だから『マインド・ゲーム』とか『パプリカ』とか大好きだ)、あえてアニメーションらしい映像表現を避けている原恵一監督の作品は、本来であればマイナスの評価を下してしまいそうになる。それでもこの監督には、『クレしん』に関しても『河童のクゥ』に関しても、そしてやはりこの『カラフル』に関しても、”やられた”と思ってしまう。緻密な映像と細かな演出をありとあらゆるところに配置し、伏線を重ねながら最後には確実に琴線に触れてくる。疑いようも無く傑作だ。

 森絵都の10年前の同名小説を映画化した『カラフル』。前世で罪を犯してしまった、しかしそれを覚えていない<ぼく>はガイド役のプラプラに導かれ、自殺した少年・小林真の体を借りて、自分の罪を思い出すための”修行”をすることになる。人の良さそうな父や母を見て<ぼく>は「なぜ小林真は自殺したのか」と怒りを表すが、プラプラに自殺の原因を教えられるやいなや、周囲を、特に不倫した母親を汚らわしい目で見るようになる。<ぼく>は自分の罪を思い出せるのだろうか?

 原作では<ぼく>がその罪に気付いた瞬間が誰にでも分かるように描写されていたと思うが、映画版では意識的にそれを避けているようであり、一体いつ答えにたどり着いていたか、「ここかな?」と感じ取れるシーンはあってもやはり明確ではない。ターニングポイントを明確にしたほうが劇的な演出もできるはずなのに何故そうしなかったのだろう?それは、売春をしていた同級生のひろかに真が「人間はいろんな色があってもいい」(原作にはない台詞だ)と語りかけるシーンがヒントとなっている。

 おそらく監督は、<ぼく>が罪を思い出した時期を曖昧にしてみせることによって、真の「いろんな色があってもいい」という台詞が唐突に出てきたものではなく、いつの間にか一体化した<ぼく>と真の、ある意味で2つの人格があったからこそそういう考えに至ることができた、ということを表現したかったのではないか。<ぼく>と真に対して能動的な発見を促したかったのではないか。

 また、この「いろんな色があってもいい」と語りかけるシーンは、幻想的であるともいえる。それはひろかとの会話が終わった瞬間、いきなりひろかは消えてしまい、最初からその場には真しかいなかったようなカットが挿入されるからだ。自分の犯した罪をひろかに映し出し、重ねる、言わば鏡のような役目をひろかのイメージが担ったのではないかと思われる。涙を床に落ちる絵の具の黒と重ねた演出もここでは効果的だ。

 この『カラフル』は実写さながらに描き込まれた美しい映像のほか、やはり特徴的なのは、繰り返し食事のシーンが流れることだろう。とにかく<ぼく>は、母親の料理を食べないことによって母親を拒絶しようとする。演出としてはそれで十分なのだが、実は数々の食事の風景には、<ぼく>の知らない家族たちの、ある思いが秘められるということが最後に分かる。<ぼく>が流していた食事でも、映像的にはただ流れていたわけではない。鍋料理を口にかきこむ<ぼく>を見つめる、母親の視線も実に良い。

 映画のテーマはもとより、実に細部まで気の行き届いた、丁寧な丁寧な作品であると思う。注意すれば注意するほどいろんなものが見えてくるのではないか。いま考えれば、プラプラだけ色調が低いのにもちゃんと理由があったのだ。まさにこの映画自体が劇中で訴えているような”カラフル”を体現している。監督の思いを見た。



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