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*未見の方、注意されたし。完全にネタバレしてします

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 だから映画はやめられないのだ。『グラン・トリノ』を見た全ての映画ファンは多かれ少なかれそう感じるに違いない。行き過ぎなスラングに声を出して笑い、理不尽な暴力には筆舌に尽くしがたい怒りを覚える一方で、ラストには哀しみを感じながらも優しさが胸にあふれ、深い余韻が訪れる。わずか2時間で喜怒哀楽のあらゆる感情を喚起させてくれる『グラン・トリノ』のような作品に出会うと、確かに映画は娯楽であるけれど、何て贅沢で精神性の高い娯楽なのだろうかとつくづく思う。

 クリント・イーストウッドが演じるウォルトは絵に描いたような偏屈の頑固親父だ。いつも仏頂面で構えているウォルトは気に食わないことがあれば唸り声を上げ、苦虫を噛み潰したような顔をし、ときには唾を吐く。彼が大切にしているものといえば、家に掲げた星条旗がくっきり映るぐらいぴかぴかに磨かれたグラン・トリノと愛犬ぐらい。ジャップ、イエロー、米食い民族など差別用語が頻出する点からも分かるように偏見がすさまじいウォルトであるが、しかし、近所に引っ越してきたアジア系の民族、特にタオとの交流を通し、彼のなかの偏見という固い氷がしだいに溶け始める。人生後半にして息子のような友人を新たに得たウォルト。そんなタオとその家族を襲ったのは、到底見過ごすことができない、理不尽な暴力だった。

 憎しみは憎しみを生み、暴力を生む、ということを私たちは歴史から知っている。舞台こそ小さいが、『グラン・トリノ』ではまさに暴力と憎悪の連鎖、その縮図のようなものが描かれているではないか。チンピラたちのコミュニティに属することをきらったタオは次第に彼らの反感を買うようになり、始めは侮辱するだけだったが、それが顔にタバコを押し付ける暴力にまで発展――それを知ったウォルトはチンピラの仲間のひとりをボコボコに殴りつけ、「次はこんなものじゃすまないぞ」と警告する。しかしそれもむなしく、やつらはタオの家に無造作に銃をぶっ放す。タオを含む家族は幸い無事だったものの、「おれが余計なことをしたのか?」と一人つぶやくウォルト。そして家族たちが安否を心配していたスーがようやく帰宅すると、彼女の顔は原型が分からなくなるぐらい殴りつけられており、強姦の跡さえある。ここにおいてウォルトのみならず観客である私たち怒りの感情もさらに煽られる。スーが実際に襲われるシーンは一切描かれていないのだが、前に登場したときは笑顔だったからこそ、そのあまりの変貌ぶりがショックの度合いを高めている。

 言うまでも無く、強姦は家を蜂の巣にされることよりも、もっと理不尽で恐ろしいことだ。しかし不幸中の幸いというべきか、まだ誰も死んじゃいない。それでも当然果たすべきは報復であり、復讐である。そうして物語は暴力の極地である“殺人”にまで事態が及んでしまい、ウォルトは殺されてしまう。本来ならばこれもまた憤懣やるかたない感情を喚起させるはずなのだが、自分が過去に犯した罪を償うように殺されることをウォルト自身が望んだ『グラン・トリノ』においては、その究極の自己犠牲、究極の優しさに誰もがことばを失うに違いない。頭の良いタオはウォルトの考えが分かるだろうし、もはや復讐なんてことはしないだろう。ここにおいてようやく憎悪の連鎖にピリオドが打たれたことになる。

 居合い道の教えに「鞘の中の勝」ということばがある。これは「刀を抜かずして勝つ」という意味らしいが、抜かずの剣こそ平和の象徴。これを現代らしく”撃たずの銃”と置き換えるとするならば、銃を構えても決して無駄撃ちすることなく様々なトラブルを収拾してみせたウォルトのことを英雄と呼んでも差し支えないだろうか。人を殺すことの後味の悪さを知っているウォルトはあくまで威嚇や抑止力の手段として銃を使うだけであって、滅多に発砲はしない。せいぜい手の形で銃を作って、「バン」、と撃つマネをするぐらいである。

 抜かずの剣こそ平和の象徴。だが本当にそうだろうか、これは欺瞞ではないかと『グラン・トリノ』を見たあとでは思う。なぜならラストでチンピラどもの家の前に丸腰で立ったウォルトにはそもそも抜く剣などなかったのだから。”戦場”へ向かう前、床屋で髪だけではなくヒゲまで剃ってもらったり、テーラーで人生初というジャケットのお直しをお願いしたりと、明らかにウォルトは死ぬ覚悟、これから自らの人生に終止符を打ちに行こうとしている様子が窺えるが、度を越した暴力にタオ同様フラストレーションの溜まっている観客は、ひょっとしたらあのあっけない幕切れに驚き、少しの物足りなさを感じるかもしれない。だがどうだろう、機関銃をぶっ放すなどして復讐を果たすのではなく究極の自己犠牲によって憎悪の連鎖を断ってみせたウォルトの姿は、現代の新たな英雄像を示しているのではないだろうか。

 そうして『グラン・トリノ』は抜かずの剣のさらに向こう側、つまりそもそも剣を持たないことが平和の象徴であるということを描いているのだと自分は思う。武器を持っていればそれを使いたくなるのが人間という生き物だ。核兵器だってそうなんじゃないか。核保有国の言い分といえば”力の均衡を保つため””抑止力のため”であるが、脅しが前提にあるのだから――極論かもしれないが――たとえ爆発させなくとも核を使っていることにほとんど変わりは無い。そんな世界に真の平和が訪れるのか?ウォルト自身にこのような考えがあったかは分からないし、ともすればこれは危険な考え方になるが、武器を持たないことによって終わりを迎えたという事実を忘れてはいけない。少なくともウォルトは、確かに殺されてはしまったが、戦わずして勝ったのである。これぞ平和の萌芽ではないか。

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