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 語らずとも自然と滲み出てくるような、中嶋莞爾監督の作家性を強く感じさせる映画的恍惚に満ちた傑作で、鑑賞後、形容しがたい余韻を残す映画だ。『パリ、テキサス』『ベルリン・天使の詩』で監督を務めたヴィム・ヴェンダースがエグゼクティブ・プロデューサーとして関わってはいるが、まだまだ邦画も捨てたもんじゃないと思わせてくれる。ヒトクローンという深遠なテーマもさることながらモノトーンを基調とした詩情豊かな映像が何より美しく、見応えがある。

 何が良いかって、冒頭の長回しからしてまず素晴らしい。オープニングクレジット直後にスクリーンに映し出されるのは病院内のロビー。この、俗世とはおよそ無縁であるような無機質な一室がいかにも近未来的であり、SF作品としてその雰囲気作りにまず成功しているなとほとんど脊髄反射的に感じさせる。まどろんだような陽光で満ちた玄関口から入ってくる初老の女性が、看護士に部屋を案内されるとようやくカメラが動いて長いすに腰を下ろした高原耕平(ミッチー)が登場するが、このときの逆光のシルエットがとても印象深く、これがおれのやり方だと言わんばかりに、このワンカットのように光と影の対比を強く意識した映像が全編を通して見られる。

 のちに現れる耕平のクローンが故郷を目指して歩くようになるそもそものきっかけを示すため、病院の床に伏す母親との会話が呼び水となって少年時代に遭った不幸な事故が早い段階で詳らかにされるが、どこがロケ場所なのかしらん、このときの田舎の風景も寒々としながら懐かしさを感じさせるように美しく撮られており、随所に挿入される霧(靄?)の映像も単なる雰囲気として終始していない。耕平と彼の双子の弟が庭で遊んでいるシーンにおいては石で囲っただけの小さな焼却炉からもくもくと排出されている煙がスクリーンを横切るが、これをさりげなく、あくまで背景としての一つの演出としながらも、自分はこの煙がなかなかに重要な役目を果たしていると感じた。この煙がまるで壁のようになって死者と生者を分断しているような気がするのである。

 特にラストシーンでその感覚が強まり、前半とは全く逆の構図で死んだ母親と死んだ”2人目”の耕平が縁側から室内へ入っていくところを生きている”3人目”の耕平がまさしく白昼夢のごとく目撃するのだが、やはりここにおいても両者の間を遮るように煙が流れ、死んだ彼らに追いつけないともいうような演出がなされている。これは法を越え矩をこえ誕生したクローン人間であっても踏み越えられない一線があることを暗に強調したかったのではないだろうか。「ぼくは生き続けなくちゃならないんだ」と話す耕平だからこそ感慨は深まる。それを考えると、朽ちた故郷の家で死んでいた”2人目”の耕平を抱き、押し殺した声で泣く”3人目”の耕平の胸の中に渦巻いていたのは、むしろ死への憧憬であろうか?

 他の映像や役者のことについてなど、語りたいことはたくさんあるけれど、かなり長ったらしい文章になりそうなので、これ以上言及するのはやめておこう。興味があればぜひ見て欲しい。詩情を喚起するような丁寧に撮られた映像も素晴らしければ、この映画自体が投げかける問いに思うところがあるはず。噛めば噛むほど味が出そうだし、考えれば考えるほど何か出てきそうな奥行きのある映画だ。


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