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『SOMEWHERE』(2010年、アメリカ)




 『SOMEWHERE』は、幼い頃から名監督の娘として生きてきたソフィア・コッポラ自身を投影したと思われる、まさに映し鏡のような映画であるが、冒頭わずか3分で好き嫌いが分かれる作品といっても過言ではないかもしれない。環状道路を延々と周回する黒のフェラーリ。それを固定されたキャメラが長回しで映し出す。「堂々巡り」「空転」「脱出不可」などの単語を想起させるほど、主人公のいまの心情を分かりやすく描いているが、このシーンが、ようは水先案内人のような役割で、これから始まる映画の方向性を示唆しているといえる。

 この映画は、ハリウッドにある有名ホテルの一室を借り、空虚な思いで毎日を過ごすセレブ俳優・ジョニーと、離婚した妻と暮らす娘・クレオとの短い交流を描いた作品であるが、特に父と娘の関係が深まるようなことはなく、私たちがふつう映画に期待するようなドラマは起こらない。むしろ見る人によっては眠気を誘われるかもしれない。映画的ダイナミズムが削ぎ落とされたソフィア・コッポラのこの新作は、退屈なようでいて、しかしながらその映像空間に漂う緩慢な気配――多用される長回し、ゆったりとしたズームイン/アウトがこれに寄与している――には、目が離せない魅力があるように思う。

 ジョニーとクレオとの関係や対比がことさら強調されることはないが、光によって影は色濃く見えてしまうというもの。富と名声こそあれど、退廃的な生活を送り、大海にただ浮沈しているだけの自分が、娘のように美しく眩い光のような存在と対峙するのは耐えられない。その”存在の耐えられない軽さ”が、おそらく一度だけジョニーの心情が吐露される、「俺は空っぽな男だ」ということばに全て集約されている。人は一人では生きられない、ゆえに相手と比べてしまう。駄目なところも含め、「これが自分だ」と胸を張れる人間は少ないだろう。

 しかし、ジョニーはクレオと交流を重ねることによって、微妙にだが確実に変化が訪れる。ジョニーにとっての変化の起点がまず”自分で料理をする”という点は個人的に面白く感じたが、分量を無視したパスタ料理に、”変わろうとする自分”しかし”急には変われない自分”がよく表われている。ホテルの部屋を引き払い、フェラーリを走らせ、道端で乗り捨てるジョニー。そして”どこかへ”向かっていきながらジョニーが浮かべる表情がラストカットとなって映画は幕を下ろす。

 起伏に乏しくとも、キャメラの視線と空気感だけで映画を牽引するこの気概の良さは大いに買いたい。
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